小さき人たちの遊び~遊んだって大丈夫~

小さき人たちの遊び~遊んだって大丈夫~


この世界に生まれて、まだ数年しか経たない小さき人たち。イタリアで、日本で、小さき人たちはどんな風にして、世界を知り始めているのでしょうか?今回は、東京で二人の女の子を育てつつ、シンガーソングライター・幼稚園教師として活動するケイト・シコラさんによる「遊び」をめぐるエッセイです。

/ 文・写真 ケイト・シコラ、構成・コムーネ編集部

遊びは不可欠なものです。遊びは好奇心と探求心からなります。遊びは子どもたちがつながる方法であり、自分の個性を探求し、社会の一員となる方法です。遊びは自然なことであり、母親、ミュージシャン、幼稚園の先生としての私の生活の中心を占めています。私は、自分の子どもたちや生徒たちと遊ぶためのゆとりを確保しようと努めています。でも、遊ぶためのゆとりは、私自身も持つべきです。なぜ、大人にとって遊ぶことはこんなにも難しいのでしょう?

 

赤ちゃんはせせらぎ、つかみ、モノを口に入れます。これは「遊び」のように見えないかもしれませんが、遊びなんです。彼らの好奇心を満たす方法であり、また発話と動作の始まりです。赤ちゃんは成長するにつれて、自分の身の回りのモノを使って遊び、探検する方法を学びます。 「おもちゃ」がよりオープンエンドであるほど、優れています。ほとんどすべてのものがおもちゃになります。カップを使って水をすくい、注がれる水を眺めることは遊びのように思えないかもしれませんが、これも遊びなんです。

彼らは遊んでいるだけでなく、同時に運動能力と数学的概念を発達させています。よちよち歩きの幼児は小さな子どもになり、ひとりで遊ぶのだけではなく、他の子どもたちと一緒に遊び始めます。子どもはおしゃれしたり、レストランで働く真似をし始めます。彼らは、注文を受けたり、料理をしたり、おもちゃのレジで注文を受けるふりをしながら、言語、社会的スキル、読み書き、数学の技術を発達させているのです。もう少し大きくなると、絵を描いたり、切ったり、のりを付けたり、踊ったり、音楽を作ったりしはじめ、様々なやり方とカタチをとって自分自身を表現することを学ぶのです。子どもたちは遊びたいという欲求を持って生まれてきますが、大人になるにつれて、自由に遊ぶ機会が減り、代わりに、より多くの責任と期待を背おわされてしまいます。

 

教師として、私は多くの親たちと、彼らの子どもたちについて話をしてきました。学業成績に集中しすぎて、遊ぶ時間が子どもにとってどれほど重要なのかを、ほとんど意識していない親御さんが時折いらっしゃいます。実際は逆で、勉強や放課後の活動を強制されているときよりも、遊んでいるときに子どもたちは多くのことを学ぶんです。二十代前半のころ、私が日本語を勉強していたとき、なぜ大人の教材はこんなにも退屈なのかと不思議に思いました。ゲームをしたり歌を歌ったりして英語を学んでいる自分の生徒たちを少しうらやましく思ったものです。学びが遊びの最中に起こることは、子どもにとってとても自然なことです。なぜ、大人も同じように遊ぶことが奨励されないんでしょう?

幸運なことに、私には、家でも職場にも日常的に遊ぶことを思い出させてくれる幼い子どもたちがいます。あるとき、公園のブランコで満面の笑みでひとりブランコに乗るおばあさんを見つけました。彼女はたった一人のようです。孫を遊ばせにきているわけでもないようでした。そんな彼女を見ながら、私は娘にこう言ったんです、「わたし、あの人のようになるわ」。

ケイト・シコラ

アメリカ・ニュージャージー州出身、東京在住のシンガーソングライター。8才と2才の娘の母。2009年に1stアルバム『grace in rotation』で日本デビュー。同年、フジロックフェスティバルの”ROOKIE A GO-Go”ステージに出演。大学生のころから幼児教育に携わり、8年前からKAISインターナショナルスクール(東京)の先生としても活動中。